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ストレンジャーとしての身体


 NYに半年ほど暮らしていたことがある。「誰もが他人」という認識が
人と人とのコミュニケーションの土台にある場所で、毎日がとても爽快
だった。極端に言えば、そこでは何かを演じる必要も、媚びる必要も、
恥じる必要もない。ただ「あなたはわたしではない」「わたしはあなた
ではない」という(当たり前だけど日本にいると忘れがちな)「事実」
を受け入れることからすべてが始まる。それがあんなにも風通し良く感
じられたのは、「あなた」を「わたし」の外部にいる存在、ようするに
「見知らぬ他人」として捉えることで、「世界」への窓が開かれたよう
に思えたからかもしれない。「世界」とはつまり、「わたし」にとって
制御することも交通することも絶対的に不可能な、完全なる「見知らぬ
他人」の領域なのだから。

 上の段落の「あなた」をすべて「わたし」に置き換えてみると、ぼく
が作品を通じて考えていることがわかりやすく見えてくるように思う。
「わたしはわたしではない」ということ。精神的にも肉体的にも、ぼく
の大部分はぼくのコントロールの外にある。くしゃみは頼んでもいない
のに突然やってくるし、知らないうちにうんちは作られているし、心臓
は勝手に脈打ってる。好きになろうと決めたわけじゃないのに誰かに恋
してるし、悲しいと感じる前に涙は出てくるし、ウソだとわかっていて
もハリウッドのSFXにだまされる。もちろんこれは、このぼくに限った
ことではないだろう。誰もが、その身体を「見知らぬ他人」に否応なく
牛耳られている。

 だとすれば、本質的な自他の境界は、肉体と外界とを隔てる皮膚にで
はなく、「わたし」と「世界」とを隔てる見えない膜にこそあるのだろ
う。「わたし」にとって身体が異端者なのではなく、「わたし」こそが
身体=世界において異端者なのだ。ぷるぷると震えながら中空を漂うち
っぽけなシャボン玉のように。ぼくのひとまずの仕事は、この当たり前
の「事実」にさまざまな角度から光をあてることだ。そして、シャボン
がはじけて世界に吸収されるギリギリ手前の臨界点、究極的に爽快なは
ずのその場所の風景を、作品を通じて提示したいと思う。

                         2009年7月7日
                            奥村雄樹



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